続・片言隻語
第2回 戦後日本の図書館変換期?
私事で恐縮ながら今年(2022年)6月に相次いで、図書館の世界(専門図書館)での敬愛する先輩2人が鬼籍に入られた。まさに「昭和は遠くなりにけり」である。さらによく考えてみると明治維新が1868年、それから77年たって、我が国始まって以来の敗戦の昭和20年は1945年、占領が始まって、現在に至る体制が創られて今年令和4年は、2022年で、77年になる。単なる数字が一致した偶然と言えばそれまでであるが、考えるに、75年、3/4世紀から80年という時間は一つの組織や制度が創られてからその組織や制度がその当初目的を果たし、やがて制度疲労を起こして改革の必要な時期に差し掛かる時間なのではないだろうか。そう考えれば、今やまさに戦後体制の総点検をすべき時期に差し掛かったと言える。
この夏休みに興味深い文章を目にした。占領下に発足したそれまでの、すなわち大日本帝国の時代に官営であった組織が占領軍によって、民営化にまで至らないが公共事業体化された、いわゆる三公社についての言及記事である。具体的に言えば、三公社の代表である国鉄を取り上げていた。国鉄は占領軍により、肥大化した鉄道省が解体され、公共企業体として、再出発した。国鉄は一面で、人員整理に伴い、総裁の変死事件に始まり、悲惨な重大事故を頻発させ、物流における貨物輸送の鉄道離れの傾向を見抜けず、労働組合対策も後手に回り、累積赤字の原因を積み上げるが一方で、高度経済成長期には大都市圏輸送を限られた施設と設備で切り抜け、脱石炭のエネルギー革命の中で、蒸気機関車を全廃して電車・気動車による動力分散方式列車による鉄道の近代化を世界に先駆けて実施し、その集大成が新幹線鉄道の成功という輝かしい成果もあげた。このプラス面とマイナス面の総合的な評価は巨額の累積赤字を生じさせたということで、結果としてはその組織が昭和62(1987)年3月末で、分割民営化という結果になった。
この組織が分割されて、民営化されたということは、単に巨額累積赤字を生じさせて、経営的に限界に達したという解釈だけでは済まない、制度疲労による新事態への対応すべき時期の到来による組織変更であったと考えた方がよい。
視点を図書館に移すと、国立国会図書館は戦後の占領下に、占領軍主導で作られた図書館であり、一つの組織である。今日各地の中核的な公立の公共図書館も、その大半は戦後の占領期に占領軍の図書館政策の下で創られた。日本の多くの公共図書館は占領初期に創られた日本の社会インフラとでも言うべき組織の一つともとらえることができる。国立国会図書館自体もその組織上の立場を帝国図書館であったときに所属した行政府から立法府に変えて、戦後の昭和23(1948)年に開館した。日本の歴史的伝統において図書館は従来、広義の教育活動に位置づけられてきたが、立法府唯一の図書館が、他の行政府傘下の自治体図書館と共同して、教育活動に参画し、日本の教育分野にある図書館界を国立図書館としての国立国会図書館がリードすることは困難である。この結果が、国立国会図書館が、立法調査業務や、書誌的メタデータ作成面で多くの有効で立派な業績を積み上げても、公共図書館等の現場においては無節操な無料貸本屋的サービスが横行し、小規模な貸本業者や、書籍流通の末端を支えた、小規模書籍小売店の廃業という事態を招き、日本社会における知的文化圏形成の最も基本的なインフラの崩壊にもつながったとも言える。
今や、日本社会の情報環境は大きな変換局面に達しているのであろう。ネット環境が進展し、携帯端末の普及とともに、SNSに代表される情報受発信のチャネルが多様化し、その影響もあり、従来世論形成で主導的役割を担ってきたマスメディアが新聞、放送(テレビ)を主体にフェークニュースや、偏向報道で、社会各層からの支持を失いつつある。
SNSに代表される容易に受発信される情報は未評価であり、偏向しているか否か、仮に変更していても変更している前提で、完成度の高い情報であれば使いようもあるが、その完成度は如何かの評価や評価尺度が社会インフラとして存在して欲しい。
本来このような要求に応えての公共図書館の蔵書構成や選書評価が必要であると考えるのだが、そのような動きは日本では見られない。これを国立図書館に期待したいところであるが、今の国立国会図書館にそれは無理と思われる。なぜか?
その答えは複数あるのかもしれないが、先に述べた日本の三公社の民営化による制度疲労への克服に即していえば、一案としては、国立国会図書館には、初代の金森徳次郎館長以来、企業人の館長がいないことがあげられる。企業人でないということは自らのサービスの市場の動向に敏感な人がいないということになる。いないと断定的にいうことははばかられるという面もないではない。初代の副館長であった中井正一氏は該当する人かもしれない。中井氏は良く知られているように若いころ京都で社会主義思想に基づく消費者組合活動に従事した経験を持っていた。すなわち市場の動向に対するセンスを持っていたと言える。惜しいことにその中井副館長は任半ばにして、病に倒れ、彼の図書館での仕事上の目標は未完成のままになった。これが完成の域に達していれば、国立国会図書館もより市場感覚のある、国立図書館として他の図書館に対しリーダーシップの取れる図書館になったかと惜しまれるところである。
国も何もせずに手をこまねいていたわけではない。20世紀から21世紀への世紀の変わり目に矢継ぎ早に法環境を整えて、民間資金による公共施設の整備(PFI法)や、指定管理者による公の施設の管理運営を財団法人、NPO法人に限らず、営利企業にも開放し(地方自治法の一部改正)、従来公設公営を大前提としていた公立公共図書館の設置・運営の私設民営への途を開いた。
もとより解決方法は幾つかある。一案としては一国に国立図書館ですらも国立の一館しか設置できないという縛りはない。国立〇〇図書館が複数存在してもよいのである。民営の国立図書館があってもよい。国立図書館機能を果たす図書館であれば、設置が民間であってもよいではないか。そうでなければ、今の国立図書館の館長人事において、外部の企業人の登用も一案であろう。しかしこれは組織の再編や、様々な荒療治になる可能性がある。もとより、覇権主義国家による文化的侵略を阻止するという、文化的国家安全保証が担保されることが大前提ではあるが。
諸賢はいかにお考えになるのだろうか?