続・片言隻語
第10回 無料図書館サービスはサービス有料化への出発点
昔、図書館学の一分野に「図書館史」と言う研究分野があったかと思うが、今やそれはなく、「図書館文化史」に関する学会ならば、あるとも聞く。
筆者は浅学にして、「図書館文化史学」の何たるかは知らないが、図書館と文化に関わる学問であることはその名称から容易に推測できる。ではどのように関わるのかを少し考えてみたい。
先ず、図書館とはいかなるものであり、所であろうか。この問いに対し、現在の日本の多くの人は「図書館は本をただ(無料)で貸してくれる所」と答えるであろう。このような答えに該当する図書館を、関係者は「無料貸本屋」と揶揄的に表現する。しかも、その本を貸し出すと言うサービス主体は「図書館」でなく、「貸本屋」であり、にもかかわらず、そのサービスは無料で提供されるのである。 すなわち、「無料貸本屋」と言うサービスを多くの日本人はいみじくも、本を貸してくれる所を図書館とは認めずに、それどころか、そのサービスを経済的には無価値と見なしていることを、「無料」であると言う表現で表している。換言すれば、現在、日本に多く見られる「図書館は無料貸本屋である」と表する人々は、日本のいわゆる公共図書館を「図書館」と名乗っていても、実質は図書館とは言い難く、読みたい本は貸し出してはくれるものの、そのサービスには何らの有料化し得るに足るだけの付加価値を付加しておらず、無料のレベルである」との言外の意図が込められているのだ、と言えよう。
では「図書館」とは本来いかなるものか。上記の「無料貸本屋」論者であっても、「貸本屋」という本を読むことに関わるサービスにはこだわっている。すなわち「本」がそこには必要不可欠なものとして認識されている。では「本」とは何であろうか。結論から言えば、現在の図書館の関係者(専門家)も「本」は読むべきもの、「情報源」と見なしている。このことは図書館を対象とする研究分野である「図書館学」の名称からも明らかになる。
図書館学(Library Science)なる用語は日本や英語圏諸国では今やほとんど使われない。20世紀後半以来、北米を中心として、もっぱら「図書館情報学(Library & Information Science)」と呼ばれている。
要するに、「図書館」に本があるのは、その物理的な存在としての「本」という冊子体の物体に利用目的があるのではなく、その本という冊子体に記載されているコンテンツ(情報)を受容することに利用目的があることをその名称を通じて意味している。その情報(コンテンツ)の利用が目的であるなら、図書館の情報源である蔵書は必ずしも冊子体の本で構成される必要はない。デジタル電子記録の集合体、データベースの形であってもよいし、本の原稿の複製物であってもよい。その情報源から情報を入手するには、データベースへのアクセスのように、必ずしも「読書」という形式や貸し出しという方式に依存する必要もない。
その情報の提供されることが目的であるがゆえ、公共図書館は主権者に主権行使に必要なあらゆる種類の情報を提供することで、自由民主主義社会に不可欠な社会教育、生涯学習機関と見なされている。それ故、その利用が無料か有料かの差は、現状の営利貸本業者の借覧料のレベルであるなら、有料よりも、無料の方がより好ましいが、有料と無料との差異は国民・主権者の知る権利や情報入手に基本的な差別を生じさせるとも言い難いレベルの相違でしかない。それよりも重視すべきは公共図書館に、主権者の主権行使のために必要不可欠な情報がアクセスできる状態で準備されているかが問題となるはずである。主権者への情報流通の社会的なプラットホームとなるべき図書館に偏向していない、適正な情報が適切に供給されない、流通しないと言うことこそ、万難を排して防がなければならない。
今一部の国会議員は、一部出版業界の要請を受けて議員連盟をつくり、図書館における、無料・無制限の新刊書の閲覧貸出しを禁ずる法制化を検討し始めたと聞く。少なくとも主権の行使に関わる情報には鮮度があり、時間の経過とともに情報の価値は低下する。仮にこの国会議員連盟が構想しているように、新刊後一年・半年間であっても、新刊書の閲覧・貸出が図書館で禁じられたり、制約を受けることは、主権者の情報アクセスの自由、知ることの自由を奪い、ある種の制約を課すことになる。このような偏向した情報の提供や、逆に特定の価値観に基づく情報を故意に流通させない「報道しない自由」などと言う、「検閲」や「焚書」と同様の、まさに専制、権威主義的手法以外の何物でもない挙動は明らかに自由民主主義社会の基盤となるべき図書館の崩壊に直結する。
今やデジタル革命により、情報流通の実態は大きく変化した。自由民主主義社会の情報流通プラットホームとなる出版界も図書館界も書籍流通業界も、いわゆる「デジタル革命」により書籍の物的流通による本の購入とその閲覧貸出しから、デジタルデータの流通、データベースの構築とそのデータベースへのアクセスでの利用と言う方式へと世界的に移行している。しかも多くのデータベースへのアクセスは有料化されているが、その課金への抵抗は少ない。少なくとも、デジタル化の環境に馴染み、デジタル・リテラシーに馴染んだ年代・若年層ではデータ利用への課金への抵抗感は低い。
それ故、情報の利用・入手がデジタル化社会では有料であることが一般化する方向にあると思われる。これにより、出版界が主張している「著作権者」の利益も擁護されるやに思われる。ただ、有料化の単位が、冊子体単位から、情報単位に移る結果、課金単位が冊子体単位から頁単位、パラグラフ・章・項目別単位等になり、著作権者の収入が冊子体出版物の時代に比較して大きく伸びるか否かは不明であろう。
いずれにせよ、言葉によって記録された情報が社会的な情報流通のプラットホームに正しく準備され、それに対しての自由なアクセスを保証するデジタル化時代にふさわしい社会体制を書籍出版界、書籍流通界、図書館界を総合的にまとめて構築しなければならない時に日本は立ち至っていると考える。
この時代的要請に、適確に応じる事に失敗すると、明治維新期に、江戸時代の日本社会における武士階級から庶民階級に至る当時の国際的に最高水準とも言われたリテラシーの基礎となった江戸期の書物問屋が急速に没落したことの二の舞を踏むことになろう。江戸期に隆盛を誇り、江戸期の日本文化を支えた出版資本の代表であった当時の大手書物問屋の多くが出版業の基本的インフラである印刷技術面での整版印刷から活版印刷への改革に十分に対応せず、整版印刷の核となる版木取引に過大な資本投入を行なった。その結果、明治期の活版印刷による出版事業の展開に対応が不十分で、新興出版業者に市場を奪われる結果を招来した歴史的な事実を想起させる。
このデジタル社会といわれる現在において、情報源となる書籍の利用における有料制か否かは必ずしもデジタルデバイドによる適時適切な情報の入手における障害よりも大きい障害・差別になるとは言い難い。寧ろ、紙の書籍に依存していた時代の新刊書を購入して一冊を読み切るのに、何日もかかるという情報収集方法より、データベースの検索で必要なだけの情報を有料検索して、活用する体制は合理的とも言えよう。これはまさにデジタル革命とも言えるデジタル技術の活用による技術革新が実現した効果であることを意味する。
デジタル革命により、情報の入手は格段に迅速化され、より多種多様な情報が視野に入り、それにより、主権の行使も高度化するはずである。今まさに行うべきはこの来るべき時代の情報環境を享受すべく、デジタル・デバイドなる状態に陥りかねない人々に、デジタル・リテラシーを如何に授けるべきかを考えなければならないし、出版物流通の利害を争う現行の日本の体制を改め、出版、書籍流通、図書館の各業界を総合的に包含して、新流通体制の構築こそが求められている時ではないだろうか。その新体制の構築への努力こそ司書に課せられた大きな課題ではあるまいか。