続・片言隻語
第1回 「無料貸本屋」を卒業した日本の公共図書館は何をなすべきか
日本の8月は仏教の「盂蘭盆会」(俗称;お盆)の月でもあり、また昭和20(1945)年以後のこの日は昭和天皇が昭和20年のこの日の正午に、「終戦の詔勅」をラジオ放送(NHKのラジオ放送以外に民間放送も、テレビ放送も未だなかった)を通じて広く国民各層に周知された日(以後、当日は終戦記念日とされている)でもあり、日本国民にとっては300万をはるかに超えると言われる、戦闘・非戦闘員を含む先の大戦(大東亜戦)の戦没者・犠牲者の慰霊と鎮魂の祈りの月となっている。
俗称、「新型コロナウイルス症候群」と言われる武漢熱感染症症候群の第7波と呼ばれる感染症の波が流行している中で迎えた2022年の8月は戦後77年が意識され、若干ここ数年とは異なる特徴がみられた。即ち、先の戦争(大東亜戦)を記憶している人が少なくなり、いよいよ戦争の体験・記憶者がいなくなる時代に入りつつあると言う時期であることが強調されたように思う。思い出せば、10年ほど前には「従軍した人々からの実体験を聞く最後の機会だ」との声が聞かれた時もあった。新聞・放送等のマス・メディアによって、今年も、数例の当時、10代前半の小学校(当時は国民学校)の高学年生徒であったり、中等教育校の1・2年生であった人たちの記憶と経験談が紹介された。また、従軍されて、無事生還された人々が復員後にその過酷な体験を記録しておられる事例も紹介された。その時思った。小学校の低学年の人たちの記憶は記録として留めなくてよいのだろうか? 小学校の低学年で終戦を迎えた人たちの記憶はそれなりに貴重で、戦争のある側面について、なまじの大人よりも生々しい記憶があるかもしれない。また未就学児童の記憶もそれなりに、記録にとどめておく価値はないのか? 何を隠そう、筆者は主戦当日には、3歳と9ケ月の幼児であり、人生最初の記憶は先の大戦の空襲にまつわる記憶に他ならない。
復員者の手記の類は日本全国で、膨大な記録が残っているはずである。それらの記録は、その記録の著者・作成された方々の大半は既に鬼籍に入られたのかもしれない。しかし、その配偶者やお子さんたち、ご遺族が高齢化し、亡くなると、現時点ではしっかり保存され、管理されている資料類も、散逸する危機に直面する。今のうちにアーカイブズ化し、保存する体制を考えておくべきではないか。
日本には主要諸外国に比較しても、不思議なことに、本格的な戦争、特に先の大戦(大東亜戦)の戦争博物館や図書館(アーカイブズを含む)が、例外的な少数を除き、無いと言ってよい。この弊害をなくすためにも、全国各地の公立の公共図書館は郷土資料構築の一環として、奉仕対象地域内住民の、従軍記録類に加え、生存者からのオーラル・ヒストリーとしての記録化とそれらの伝承・保存、さらには非戦闘員であった女性や、小学生以下の幼児の記憶なども記録化しておくとよいと考える。現時点なら、未だ幼児記憶としての戦争記憶を持っている人も相当数ご健在のはずである。幼児記憶などは当然、正確なものではない。しかし幼児の純な心に戦争や空襲の悲惨さが象徴的に刻み込まれているはずで、それは貴重な記録ともなる。
私的な話になるが、昭和16(1941)年生まれの筆者の人生最初の記憶は敵機(米軍機)による夜間空襲の記憶である。夜空にサーチ・ライト(探照機と言ったであろうか?)に照らし出された米軍機の星のマークと迎撃する友軍機(日本軍機)の日の丸のマークである。何よりも鮮明に記憶に残っているのは1945年7月10日午前1時前後から始まった、堺市の最後にして最大の被害を生じた空襲(死者だけでも1800人を超えたと伝えられる)とその翌朝に見た被害者の姿の記憶である。堺市に隣接する自治体(現高石市)に住んでいた筆者は、空襲の激しさに当初の防空壕避難から、さらに安全な場所へと避難行動に移ろうとしたが、その退避経路は既に米軍機によって築かれた火の壁によって遮断されており、やむなく浜寺公園の密林状態であった松林に逃げ込み、空襲の難を免れた。そのころ、堺市の南海電車の堺竜神駅(戦後復活するも現堺駅に統合され現存せず)では下り電車が空襲のため出発抑止指示を受け、停車中で、その乗客と駅近隣の住民が、半高架で南海本線をオーバークロスしていた阪堺線の大浜支線(空襲後復活せずに廃線)の高架橋下が絶好の避難場所となり、電車乗客に加え近隣住民から成る避難民が密集していたところが火の海になり、多数の人が犠牲になったと伝えられる。
翌朝、幸いにも命拾いをした歩行可能者は、交通手段が途絶している中でも目的地に向かうべく、火傷等の応急措置を現場の救護班から受けて、頭部から顔面を含め、上半身さらには脚部まで、包帯でぐるぐる巻きにされ眼だけが見える状態で、脱力状態の足取りのままで旧紀州街道を南に向かう負傷者群となった。幼児であった筆者の眼には、まさにお化けや幽霊の集団以外の何ものにも写らなかった。筆者の幽霊のイメージは現在でも、有名な幽霊画や映画等の画像ではなく、この1945年7月の堺空襲後の目に焼き付いた負傷者群の姿が真っ先に浮かんでくる。
先の大戦の日本の指導層(文官、武官を問わず)が記述された主な記録は既に公刊化されたり、国立国会図書館をはじめとする主な資料館等に受け入れられているが、それでも未だに、新資料として折々に研究者の発掘結果が公表されている。一方の各地域では、地域所縁の指導者に加えて、一般国民の下士官や兵として応召した人々をも含めた日記や回想記等も残されている例は少なくないはずである。これ等の積極的な発掘・収集、組織化、修復等の保存対策は公共図書館としての本来的な業務の主要部分のはずであり、今やその業務に本格的に取り組む時でもあると思料する。関係者のご一考を期待したい。