片言隻語

第9回 米国留学時代の思い出;図書館のイメージ(2)

 米国の図書館学校の学生と会話すると会話の相手が女性である確率が高くなる。図書館学校には圧倒的に女性が多く、男性の学生比率は10~20%程度であった。筆者が慶應の図書館情報学科の男性学生の比率は、平均して30%前後だと言ったら、日本の図書館の世界は男性社会だと驚かれた。そこで、バークレーの大学図書館副館長(女性)に「米国の図書館は女性が主導権を握っているのか」と尋ねたところ、「とんでもない。未だ男社会よ。だから我々女性は戦い続けなければならない(当時“ウーマン・リブ”と言う語が流行っていた)証拠を見せるからついて来なさい」と言って、館長室へ続く廊下へ連れ出された。廊下の両側には副館長室(複数)や部長級の図書館の幹部職員の個室が並んでいて、ドアには名札がついている。そこに記された名前は、男性のものが過半数であった。一方、現実的には、図書館学校の学生には女性が多い。このように女性が多数派を占めているにもかかわらず、少数派の男性が実権を握っているという状況は当時(1980年代)が過渡期で、もう少し時間がたてば、女性が相応の実権を握ることができたのであろうか。議会図書館、有名大学の図書館長や、ALA(米国図書館協会)はじめ、各種関係団体の指導者・管理者において、女性の比率が過半数となるには未だ若干の時間が必要なのかもしれないと思ったが、その後、事態が大きく動いたとのニュースも聞かないように思う。

 このような米国の図書館員に、自分たち図書館員のイメージを尋ねてみた。すると「司書とは、中年のメガネをかけたスレンダーな白人女性であるが、決してブロンドで、ゴージャスな感じではなく、銀髪又は亜麻色の髪を無造作に後ろでひっつめに結わえている地味な感じの女性である。経済的には決して貧しくはないが、豊かでもない。学部学生時代の専攻は圧倒的に英文学である」と言う答えが返ってきた。比較的落ち着いた、健全で教養ある女性のイメージが強く、これらの人たち(司書)が積極的に図書館界の実権を男性から奪取すべく闘争的に活動するとも思えない。よくも、悪くも、健全な米国型の民主社会の基盤を構成する一員のイメージである。ここにも、図書館学校の男女構成比に比較して図書館界の指導層に相対的に男性が多くいることの理由の一端があると考えられる。そしてこれらの司書層の政治的な立場は、圧倒的に民主党支持である。日本ではそんなに親しくない人との会話で話題に窮した時には、天気を話題にすればよいと言われるが、米国では政治問題を出すのが良いとされる。支持政党を明確に示すのが、米国ではつい最近までは一般的であった(2016年秋にトランプ大統領が選ばれた辺りから変わったのかもしれないが…)。因みに、支持政党を明示すると言っても、米国では共産党支持を表明してはいけない。何故なら米国では共産党は非合法政党だからである。自由主義諸国では共産党が非合法化されている国は少なくない。筆者を含めて、少なからぬ日本人はこれを不思議に思うが、これは戦前期から日本の教育や社会的指導各層、特にメディアの世界に、共産主義工作者やシンパの人物が入り込んでいて、特に公立の初等中等教育校等で偏向教育を実践した結果であるとも考えられる。世界的にみると、自らが主権者として選択した社会体制を否定する政党を支持することは主権者の政治行動として矛盾するし、民主的な決定に挑戦する思想・信条は否定すべきで、これは思想・信条の自由以前の問題であるという考えが一般的である。このように世界の常識が日本の非常識になり、日本の常識が世界の非常識になっていることは多々ある。日本では、国際問題で国境にこだわると国粋主義者とさげすまれ、世界連邦など、国境のない世界を理想とするコスモポリタニストを憧憬する風潮があるが、このように自国の民族文化を尊重しない人物が海外では評価されないこともこの一例であろう。

高山正也 

(掲載日:2018年12月25日)

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