片言隻語

第7回 日本社会の課題:日本の常識と世界の非常識(3)

 もう一つの指摘が教育問題である。2018年10月2日発足の第4次安倍晋三内閣の文部科学大臣柴山昌彦氏が就任早々の記者会見で、記者の罠とも言える質問に答えて、旧教育勅語の内容趣旨は今日の教育上も徳目としては重要であるとの発言をし、早速野党の揚げ足取り非難の対象とされた。正直、「またか」という思いがある。要するに教育の方針ではなく、「教育勅語」と言う言葉が問題にされているのである。教育勅語は、1948年にその内容(精神)を教育基本法に引き継ぎ、失効している。もし、「教育勅語」と言う語を使わず、内容としての「“子は親に孝養を尽くし、親は子を慈しみ、兄弟、姉妹は協力し、助け合い、夫婦は仲睦まじく、友人とは胸襟を開いて信じあい、己の言動を慎み、全ての人に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、社会公共のために貢献することを旨とすべし”との教育勅語の内容は今日でも、日本はおろか世界的に評価、認識されるべき徳目であり、これを教育する必要がある」と言えば、これに反対する人間は今の日本では、少なくとも国会議員として認められないであろう。要するに、文部科学大臣の言動は問題だと騒ぐ議員は、言葉の真の意味ではなく表面的な言葉尻だけを問題にしているのである。今から70年以上前に否定された言葉、固有名詞、名称を使ったと言うだけで、それが問題だと言う。

 憲法9条問題も同じである。今我々に求められているのは20世紀の半ばにどうであったかではなく、21世紀のこれからの日本の社会、国家、個人がどうであるべきかを問題にすべきなのであって、20世紀の占領下、1948、49年の日本の価値観でこれからの日本がどうあるべきかの論議をすることではない。いつまで、1940年代後半の占領下日本での、今や時代遅れになった価値基準にとらわれ、それを振り回した言動・主張をするのか。それをやめなければ日本の政治の前進はない。最近、日本ではリベラル、革新を自称するグループの言動が、その「リベラル、革新」と言う語に相応しくなく、あまりに保守的で復古的な論調が多いように感じる。我々は21世紀の今を起点にこの先、50~100年を見据えて、日本の、日本人のあるべき姿を論じ・考えてゆきたいと思う。特に、20代、30代の青年層はそのように考えているはずだが、60代以上の、特に団塊の世代に属するといわれる人たちはどうも1940年代後半の価値基準に準拠したがるようである。
 要するに、1940年代後半の占領下日本は、多くの国民が戦時被害への被害者意識から、責任の所在を旧国家権力に求め、また占領軍の、旧国体下での日本はすべて悪いのであって、戦争犯罪の贖罪はすべて日本人が負うべきとのWar Guilt Information Programに基づく、日本弱体化政策や洗脳プロパガンダを受け入れることに抵抗は少なかった。小、中学校での占領軍指導による「旧日本は邪悪である」との偏向教育を受けた世代は学校秀才ほど、そのような先生の言葉に示された偏向教育内容を真実と信じ込み、今日に至ったと言える。

 そしてこの占領下の偏向教育を受けた世代が今や60代、70代となり、彼らが日本社会の指導者層となった1990年代以降、現在にいたる日本の社会では、折から世界的に進行した情報流通のネットワーク化、SNS等のICT革命とも言える情報環境下で、世代間の政治、社会に対する意見、また情報伝達媒体の利用実態に関する乖離が大きくなった。このことはある面では日本だけでなく、現在の先進諸国に共通に見られる現象でもあるようだ。すなわち、若年層の活字離れ、既存の放送(テレビ)離れが起き、若年層の好む情報メディアはもっぱらSNSに移行したといわれている。
 若年層の活字離れが、もし、より新しい、より多くの情報の吸収・受け入れを拒むのであれば、これは図書館の世界には大問題である。しかし、若年層は情報の吸収には、変わらず貪欲であると確信する。図書館とは単に活字本に触れて、それを読むためだけの社会的な施設なのであろうか。そうではないはずである。図書館とSNSとの共存は可能である。 図書館はその時代、時代の人類の知的文化の精華を集積し、より一層高度な文化の発展に資するための社会制度であり、現在の情報技術の革新的発展により、その情報のパッケージの形態が、従来の活字出版物からデジタル形態に変わろうとも、図書館の機能や重要性が増大することはあっても、減じることはないと信じている。

高山正也 

(掲載日:2018年11月22日)

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