片言隻語
第31回 日本における書籍と図書館との関係
日本人は世界の諸国民の中でも本好きだと言われる。今でこそ、電車の中で乗客の大半はスマホに夢中であるが、一昔前までは、居眠っていない乗客のほとんどが、新聞か本に目を落としていた。この背景には日本人の識字率の高さと、日本の出版文化環境と日本人の生活文化環境が密接に結びついていることがあると思われる。ではこのような本好きという状況がいつごろから出来上がったのであろうか。年間の出版点数や、国民の読書時間の長さを比較すること等で論じることも可能かもしれないが、どうも日本人の読書はそのような短期間の計量的処理で対応できない特徴があるようにも思える。
何よりも日本のどこの町にも本屋があった。最近この本屋(書籍小売店)が町からなくなるとそれがニュースネタになる。新刊書店だけではない。古書店も多く存在した。東京の神田をはじめ、大学のキャンパスがあるとその近辺に、かつては必ず古書店が複数軒存在した。これは日本では特に新刊本だけがもてはやされているのではなく、古書も相応に読まれていることを示している。日本では古書も昔から大事にした。本は読み捨てにする一過性の消費財ではなく、将来に伝承すべき"お宝”であった。それが証拠に、我々の幼時に両親・祖父母などから聞かされた「桃太郎さん」のお話しの絵本では、鬼が島から凱旋する桃太郎さんの絵があり、その絵には必ず赤珊瑚・桃色珊瑚や千両箱風の宝箱と共に、軸状の巻物が多数描かれていた。この巻物は巻子本で、紛れもなく書物、本である。要するに本は桃太郎さんが、鬼が島から奪い取って来るに相応しいお宝だったのである。この様なお宝としての本が集積する図書館は現代版のお宝の倉庫であると言える。この様に、日本では古くから本をお宝として認識していたし、お宝であるから将来に向けて丁寧に保存・伝承してゆこうと考えるに至った。そこで、東京の神保町をはじめとする古書店街には300年・400年前に出版された本が少なからず展示販売されている。有史以来明治初期までに日本で刊行されたか、書写された書物を「和本」と呼ぶ。我々、日本の図書館がこの和本と付き合ってきたのは1000年以上、1200年ほどの歴史がある。だが欧米の出版文化、出版物の歴史はその半分の歴史も無い。東洋においても、東アジア学の中核は漢籍であると言う人も少なからずおられようが、漢籍についても、今日、いわゆる中国が声高に「中国4000年の歴史の明らかな証拠」と言う割には、その中でも重要とされる宋版、元版等の多くは「佚存書(いつぞんしょ)」として日本において近代まで、大切に保存され、近代以降に里帰りした漢籍が大半ともいえる。にもかかわらず、日本の図書館人の多くは日本の図書館は諸外国、特に欧米に比して遅れているという。なぜそのようなことになるのか。その解明のためには飛鳥奈良時代からの図書館の歴史に和本や漢籍の状況を重ね合わせてみる必要があるであろう。
また将来に目を向ければ、地球規模で最近ではデジタル化が言われるが、日本の出版界は馬耳東風とばかりに従来型の紙での出版にこだわり、世界のデジタル化の流れから日本語文化圏は孤立しているようにも見えるが、それなりに出版業の経営は継続できている。しかし日本でもデジタル革命が進み、出版のデジタル化、いわゆるデジタル出版が一般化すると出版界も変わるのであろうか。変化の有無もさることながら、ぜひ、新技術の採用・活用には積極的に取り組んでほしい。そして、まだまだ未発掘の佚損書も日本には埋もれているであろうから、それらを発掘の上、紙の時代のように、安直に母国への里帰りさせるのではなく、日本の貴重な文化資源として、デジタル化の上、バーチャルな世界を通じて、中国本土だけでなく、地球上のすべての場所からアクセス化できる形で公開することが日本のあるべき図書館界の使命ではなかろうか。