片言隻語
第29回 日本人の危機対処能力は大丈夫か
2020年の日本は輝かしく躍動する年になるはずであった。その象徴ともいえるのが7月から8月に開かれる「2020東京オリンピック」であったが、言うまでもなく、オリンピックは一年延期され、できるだけ簡素に行われることとなった。
この原因となった「新型コロナ・ウィルス感染症」は、日本には1月ごろから流入し、日本全国に蔓延するとともに、その影響は単にオリンピックの選手や関係者のみならず、経済的にも文化的にも生活のあらゆる面で影響を及ぼしている。
2020年7月の開会を目標に練習・準備を進めてきた選手・アスリートは言うまでもなく、関連する全ての方面の被る経済的損失は計り知れない。この損失の補償や賠償はどこが負うのか。また保障とは、経済価値に換算して幾らと見るのだろうか。例えば、2021年に延期された場合に、2020年開催予定の大会には出場権利を持っていたが、2021年ではその権利が得られない選手の、「五輪出場選手」という栄誉と満足感は経済的に、定量的に計算できるのであろうか。予定通りに事が運ばなかったことの損失はあまりに大きく、この大きな損失は地球規模で拡大中である。
この大きな損失の補償はだれが担うべきか。言うまでもなく、今回のウイルス騒動のもとになったウイルス管理責任者である。責任者は個人なのか組織なのか。個人では負いきれまい。組織が負うべきである。とすれば、武漢のしかるべき組織なのか、あるいは北京政府なのか。当事者である北京政府はこのことをいち早く察知したらしく、当初その責任を、他ならぬ日本に押し付けようとして失敗し、罪を擦りつける相手を米国に変えた。これには米国国務省から厳しい反発が出た。最終的な落としどころはわからない。また、日本にとっても、多くの反省事項があると思われる。
〇何故、「新型コロナ・ウイルス」と呼び、「武漢肺炎ウイルス」という一番初めに使われた名前を変えてその責任の所在を曖昧にしたのか。
〇何故、いち早く中国大陸との人の往来を禁止しなかったのか。
〇何故、大型クルーズ船の寄港と寄港後の対応が後手後手に回ったのか。
〇何故、この事態への法的対応が、「新型ウイルス(もしくは感染症)特別措置法」ではなく、「改正新型インフルエンザ等対策特別措置法」なのか。
メディアはこれらの問題はすべて安倍政権の不手際に起因すると言うが、他政党の内閣ならうまく処理したと言える証拠はあるのか。
その結果、感染検査では陰性の人が発症したり、医師の検査要請を保健所が執拗に拒否したり、一般市民の間では、マスクの品薄状態や、トイレットペーパーの買い占めが起こったり、学校は一斉休校、集会・イベントは中止・禁止とずいぶんと騒がしくなった。なるべく家から出るなとの指示が学校や会社から出され、町は静まり返り、通勤電車に楽に乗れた時期もあった。しかし、観光業や飲食業などは客がいなくなり大変な事態となったし、産業界も国際的なサプライ・チェーンの機能不全で、経済への影響はとても一国内の景気変動的な理解と対応では済まないであろう。
まだ日本国内ではパニックが起きるというような状況にはないが、これが長引けばどのような事態が引き起こされるかはだれも予想できない。先の東日本大震災をはじめ、大きな災害が起きるたびにメディアは日本人がパニックになったり、暴動を起こすことなく、整然と行動することを美徳として称え、海外のメディアもそれに同調したかのように報じる。だが、このような日本人の行動は、本当に日本人の高い倫理的な行動規範によって生まれたものであろうか。大変意地の悪い見方をすれば、それは単に日本人が危機に対処するためにはどう行動すべきかを知らず、このような危機には国が救援すべきであるし、近隣諸国、同盟国が救援に駆けつけるべきである、との安易な他者依存の精神から、自主的に行動を起こすだけの自覚に欠け、そのエネルギーを持たなかっただけではないのか。
東日本大地震の際の大津波で、多くの悲劇が起きる中で、小中学生がいち早く高台へ逃げて助かった事例がある。一方で、せっかく生徒が高台へ逃げようとするのを教師が押しとどめて、結果犠牲になったという悲劇の例もある。生徒や子供たちは本能的に逃げようとしたのであろうし、これを教師や大人は、知識や忖度で押しとどめたのではあるまいか。大人たちはどのようなことを教えられ、教育されてきたのであろうか。それは自ら主体的に行動することよりも、自らの思いや考えの如何にかかわらず、周囲に自己の行動を合わせ、従属的に行動するという「争わぬことは良いことであり、こちらから争う姿勢を取らなければ、相手もそのような事はしない。」という、受け身で物事に対処する、いわば、戦後の占領軍に押し付けられた他者性善説とでもいうべきか、新憲法の精神ともいうべき高邁な考え方であるかとも思える。しかし、相手が人間の意志の通じぬ自然現象であったり、文化の異なる他民族や国家であったりすると、このような考えは災いを増幅するだけに終わる可能性が高いのではないか。
日本の文化は古来、悪い鬼を退治し、閉じ込め、自らの生活を守るために、如何に危機に対応するかを学んできたはずである。津波の常襲地には、過去の経験から津波から逃れるための避難地点や方法などが、石碑等に刻まれて残されているが、近年のデジタル化の環境では、これらは忘れ去られた郷土資料となっている。そのような昔の記述に頼るよりは、いち早くスマホに表示される緊急津波情報に依存せよ、という考えがあることは百も承知の上で言いたい。今一度、先人残してくれた情報にも目を向けようではないか。今回のウイルス禍から何かを学ぶとするなら、他者の救援を待つのではなく、被害に遭わないように普段から備える自主性を養うことではないだろうか。海の向こうからは鬼しか来ない。そのことを先人・祖先たちが自らの払った犠牲の上に立って、今に生きる我々、子孫に伝えてくれている。それらの伝えられた情報に基づき、国の安全保障から自然災害対応まで、全ての事象の中で、自らの命や安全を守るためにどうすべきかを、客観的・冷静に考え直す時ではないだろうか。