片言隻語
第28回 民族文化と国語・国字問題
日本の夏、特に戦後の日本では夏の盛りの8月は「祈りの月」の雰囲気が強く感じられる時でもあります。本来、夏の7月は盂蘭盆会、俗にお盆の月と言われ、仏教では先祖をそれぞれの家に迎える月とされていますが、1945年の8月には先の大戦の終戦の詔勅が発表され、その日に合わせて毎年、戦争犠牲者の慰霊式が行われることもあり、特に「祈りの月」のイメージが濃くなったと思われます。2020(令和2)年は終戦75年ということもあり、一段とそのことが強く感じられました。
其時に合わせるかのごとく、北京政府がチベット・ウイグルに続いて、内モンゴルで、民族言語である蒙古語の使用を禁止したというニュースが飛び込んできました。他民族や他文化を植民地支配するにあたって、言葉や文字を奪うというやり方は、18・9世紀からの西欧列強がアジア各地をはじめとしての植民地支配を行う常套手段であったことはご承知のとおりです。北京政府は共産党支配を謳っていますが、やっていることはまさに19世紀型の帝国主義国家の典型例を忠実に実行しているといえます。日本は明治維新期に、植民地化されかねない状況の下で、富国強兵策のもと、先人たちが必死に独立を守り抜き、先の大戦に至りましたが、残念ながら国力の差は如何ともし難く、開闢以来、初めて外国軍の占領を受けることになりました。そして起きたことを想い出しました。
それはミズーリ号艦上で降伏文書の調印が行われた日(1945年9月2日)の夜に、占領国軍側から日本政府に伝えられた次の三項目の占領政策です。
①軍政の施行、②英語の公用語化、③軍票の使用
いずれもポツダム宣言に反するものであることはいうまでもありません。ポツダム宣言は、国体の維持を認めるなら武力行使を停止するという、有条件での降伏・終戦だったわけですから。即座に終戦連絡中央事務局長官の岡崎勝男や重光葵外務大臣が対応し、粘り強い交渉の結果、この三項目を撤回させてくれたおかげで、我々は今も、月にちなんでは竹取物語を、季節に応じて枕草子を、あるいは源氏物語を日本語で、漢字かな交じり表記で楽しむことが出来、また円を使って買い物ができます。ただ、この占領政策指示へ真っ向から立ち向かった岡崎はこの後、占領軍のリベンジで、公職追放されたようです。しかし、彼は吉田内閣の外務大臣として返り咲き、対米協調路線を形成したことは、読者の皆様ご承知の通りです。なかなかに骨のある人であったのでしょう。
モンゴルと言えば、大相撲の世界では多くの看板力士が頑張っていますが、それに引き換え、中国や韓国出身の力士は少ないように思いますが、何故なのでしょう。
モンゴル語の記述に用いられる文字は、モンゴルでは共和国時代(ソ連時代)からロシア語に使われているキリル文字でしたが、ソ連崩壊後は徐々に蒙古文字に戻す努力をしているようです。若い世代に蒙古文字を学習させないと、彼らの誇りとするジンギスカンが、あの元王朝を打ち建て、東アジアから欧州までを支配したモンゴル帝国の偉大な記録をはじめとする民族の記録・歴史が学べないとか。ウランバートルでの会議に出張した折に、現地のモンゴル人からそのように聞いた覚えがあります。同じことを、一切の漢字を排除してハングルでの教育に特化した韓国でも起きたとの話を聞いた記憶もあります。アジアの言語には門外漢の私には細かなことはわかりませんが…。
ただ想い出すのは、台湾に旅行した時に会った人が満州人で、その人に言われたことが忘れられません。「最近の日本人は全く変わってしまった。日本人は欧米の帝国主義からアジアを開放するために大東亜戦争を起こしたのではないですか。どうして、アジアの各民族の文化を守ることに積極的になってくれないのですか。満州と言う地名もめったに使わなくなった。東北三省などと言うのは北京の共産党が無理強いして言わせている地名です。我々には満州は満州以外の何物でもない。樺太も立派な満州語ですが、最近の日本人はサハリンとロシア語を使っている。」と言っていました。
聴くところでは、蒙古人をはじめ中央アジアの遊牧民族はみんな、数カ国語に通じた多言語文化の下で生活しているのだそうです。それを北京政府は漢語の単一言語教育を推し進めて、チベット、ウイグル、蒙古、満州等の文化など、漢族が植民地化しようとする地域の言語文化をはじめ、伝統文化を根絶やしにしようとしているようで、これは日本としても座視していてよい問題なのかと考えさせられます。
多言語と言う概念が出ましたので、ついでに一言。最近、公共交通機関、特にJRや私鉄等の駅や車内の案内表示や放送が多言語化して、日本語(カナと漢字)・ローマ字・簡体字・ハングル表記で表示されたり、日本語・英語・北京語・朝鮮語でアナウンスしたりすることが多くなっているように思います。特に首都圏よりも関西圏(京阪神圏)で顕著なようですが、筆者の錯覚でしょうか。こうなると困るのは、地下鉄や私鉄のように駅間隔の短い区間で、一度聞いたり、見たりしただけでは十分理解できず、見直し・聞き直したい時に、間に合わなかったり、一定のスペースに多種の文字が詰め込まれるために、字が小さくなり、視力が弱いと判別困難になりがちなことです。一体このように多種の言語表記をする必要があるのでしょうか。日本国内では、日本語表記と国際標準語となっている英語(ローマ字表記)だけで十分ではないでしょうか。如何に外交的な圧力があるからとは言え、最大多数の利用者(日本語を母語とする顧客)に不便を強いるような案内であってはならないはずです。公共図書館等でも安易に多文化交流の掛け声のもとに、日本語を犠牲にしての近隣諸国での表記やそれら言語の図書の購入や使用が行われ、主たる利用者の利便性を悪化させているケースがなければよいのですが。多文化サービスは、多民族国家では重視すべきですが、日本は単一民族国家であり、そこでの他国言語表示はそれなりの節度が必要です。
もう一つ長話ついでに…。1804(文化元)年に通商を求めて長崎に来航したロシアの使節レザーノフが、長崎奉行に奉呈した国書はどのようなものであったかというと、日本人は当然ロシア語を知らないと考えたロシア側は、彼らも日本語がわからないために、日本人もロシア人もわかる言語として選んだのは、漢語ではなく満州語だったのです。しかもその満州語は、当然のこととして満州文字(モンゴル文字と類縁性があります)で書かれていました。しかし、当時の日本には満州語を解する者はなく、文化5年に至り、書物奉行兼天文方の高橋景保が翻訳を命じられ、景保は紅葉山文庫に所蔵されていた「御製増訂清文鑑」 (17世紀末に清で出版された満州語辞書)を唯一の参考書として、文化7年に翻訳を完成させています。
近世日本にもたらされた初期の外国からの国書が満州語で書かれていたことを知る日本人は多くないと思います。その満州語は、今や満州の地でも死語に近く、満州自体が北京政府により漢族の植民地化されてしまったような状態です。満州族(女真族)やモンゴル族にとっても、万里の長城は本来、明示的な国境線であったといいます。長城の北は北方民族(女真族やモンゴル族等)の土地であり、南が漢族の土地で、その境界に長城が築かれたのだそうですが、今や北京政府の主張する国境線は長城の遥か北にあり、満州はチベット・ウイグル・内モンゴルに先立って、漢族に植民地化され、同化されてしまいました。北京政府は満州を清の時代に清王朝(満州族の建てた王朝)が満漢一体化で同化政策を推進したと主張するのかもしれませんが、五族共和を言うなら、清王朝のやり方を改め、今からでも満州文化の復興を図るべきではないでしょうか。まさに多文化共生が必要なのです。
世は21世紀となり、しかもこの漢民族の支配地域発祥のウイルス禍により、グローバルな規模で社会変動が起ころうとしているように感じられます。その虚に乗じて、北京政府は19世紀帝国主義的な植民地支配を自国の統治地域の周辺部で推し進めているようです。当然国境を接しているわが日本国も安閑とはしていられないかと思いますが、読者各位はいかがお考えでしょうか。