片言隻語

第27回 司書の読書

 昭和20年以前の戦前期、日本の図書館界で一時代を画した人物に政界の大物でもあった後藤新平がいる。後藤新平(1857-1929)は医師・官僚・政治家として、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市市長、拓殖大学学長等を歴任した。後藤は日露戦争時に満州軍総参謀長であり、台湾総督府民生長官として仕えた台湾総督であった児玉源太郎から満鉄初代総裁への就任を請われた時に、満鉄には充実した調査機能が必要で、そのためには巨大な「アルヒーフ」を創らねばならない、と言ったと伝えられる。「アルヒーフ」とは”archieves”、すなわち専門図書館のことである。この時後藤の頭には1902年の訪欧時に見学したパリのクレディ・リヨネー銀行調査部における経験が浮かんでいたはずである。後藤は言った。「(同銀行の調査部では)日本の公債のこと、経済のこと、興業上のことなど、何でも分かるようになっております。字引をひくようにして引出せば、日本のことがすぐに出てくるのであります」と。要するに索引システム、図書館流に言えば主題件名目録が完備していたのに感心したのである。
 後藤の満鉄経営の理念が、「文装的武備」であることはよく知られている。日露戦争直後の満鉄沿線の治安は未だ安定せず、満鉄は営業の安全を保障するため、その営業路線10キロメートルあたり、15人の兵力を配置・行使する「駐兵権」を与えられていた。しかし後藤は、台湾旧慣調査の経験から、武力による威圧よりも、住民の不安や不満を吸収した政策を展開し、沿線住民の協力の下に、その不満を解消することの有利性を知り、調査の実行とその結果の経営施策への反映を優先する経営方針を採用することとした。この経営方針を「文装的武備」と名付け、調査機能を重視したのである。後藤の「文装的武備」の理念は、満鉄の安全な経営だけにとどまらず、日本の植民地経営、さらには東アジアや、アジア全域のあり方の基本として考えられていたようである。この結果、後藤の構想は満鉄の調査部と表裏一体となる東亜経済調査局になって実現した。
 後藤は、この構想を実現するために、京都帝国大学の法科教授であった岡松参太郎をかなり強引に満鉄理事に引き入れた。併せて岡松にもクレディ・リヨネー銀行の調査体制の視察を勧めた。しかし岡松とて、調査業務の基盤をなす文書管理、図書館業務については素人であり、文書管理の実践指導は、当時ダンティッヒ高等工業学校教授で、海運会社での調査業務経験を有していた経済学者のチース(K. Thies)を東亜経済調査局の顧問として迎え、彼に委ねることとした。なお、チースは赴任途上でのクレディ・リヨネー銀行への視察を要請されており、それを手本に指導した。
 チースの後任はプロシャ内務省の参事官であったウィードフェルド(1911-13)、その次はマンハイム高商教授のベーレント(1913-16)と続いたが、彼らは東亜経済調査局の顧問として、調査業務を既存の文献情報に基づき、科学的に調査することを指導することが主眼であった。そこで、文書管理・図書館的な書誌的技術に関することは、助手に任されたが、助手として来日した人物にはヘルマン・バウムフェルト(オーストリア、1908)、グリューン・フェルト(ドイツ、1910-14)、ハック(ドイツ)等がおり、これらの助手たちが特に資料収集、新聞・雑誌等の記事の分類、整理等の方法を指導した。

 こうして1920年3月末までの図書購入数量は、外国図書1万1千点、法文図書6,684点、1937年当時には図書に雑誌・新聞記事の切り抜き帳を加え、約10数万冊と言われ、1945年の活動中止時点では約20万冊程度の蔵書規模になったと言われている。(原覚天.現代アジア成立史論. 勁草書房、1984、p.439.) この中には世界的なイスラム(回教)文献のコレクションとして知られたモーリツ文庫も含まれていた。モーリツ文庫とは、オランダの東洋学者であったベルンハルト・モーリツ(Bernhard Moritz,1859-1939) とガブリエル・セラン(Gabriel Serrand, 1864-1935)の所蔵したイスラム(回教)関係の稀覯書を、モーリツの死後、1939年にオランダのライデンにあるブリル書店がセランの蔵書を含め、回教文献コレクションとして売り出したものを、大川周明が東亜経済調査局の費用で購入し、モーリツ文庫と名付けた。買い入れ価格は15万円(当時)で、1940年までに東亜経済調査局に収められたとされるが、1945年に占領軍が東亜経済調査局の所蔵文献を接収した際、米国議会図書館・国防総省の図書館に保存されたと言われている。戦時没収本については、中国大陸での日本軍による没収図書類に関する日本での調査・研究もある。これらは日本への輸送途上、連合国軍の攻撃で海没したなどで失われた図書類を除けば、戦後返還されているが、満鉄系の蔵書類は満鉄が閉鎖機関になったことと、没収した占領軍が米国軍やソ連軍など複数ヵ国にわたったこと等も原因となったのであろうか、元の状態に回復させる努力は行われなかったようである。
 満鉄には、調査部系の図書館として、クレディ・リヨネ―銀行に範を取り、ドイツ人等に指導された図書館と、衛藤利夫(戦後再建された日本図書館協会初代理事長)等の日本人が働いた大連図書館を中心に約30館ほどと言われた社会教育系の公共図書館的な図書館が存在したが、この二つの系統の図書館間には相互の交流がほとんど無かったようである。調査部系の図書館は、東亜経済調査局と表裏一体をなした調査部の調査活動の基盤を支え、その調査結果は専門家に大いに評価された。占領軍として乗り込んできた米軍が、東亜経済調査局のコレクション没収に際して、最重要目標として持ち去ったのは、モーリツ文庫でも、欧州言語で書かれた専門書群でもなく、日本語で書かれていた未刊行原稿を含めての調査報告書であったとのエピソードも残っているほどである。一方の公共図書館的な分野においても、満鉄はそれなりの成果を残した。満鉄の関係者が戦後内地の図書館に職を得た事例も少なからずある。その代表例は、上述の衛藤利夫であり、大佐三四五もいる。大佐は、昭和初期に満鉄の社命で米国ミシガン大学のライブラリースクールに留学し、マスター学位を得たプロフェッショナル・ライブラリアンであった。戦後は内地での自治体の社会教育や、大学図書館でも大いに発言をしている。
 しかし、満鉄においては調査部系と総務部系の図書館の交流実績はほとんど見られず、後藤の意図は、調査部系の東亜経済調査局にしか生かされなかったし、その東亜経済調査局も戦時下の思想調査での部員の検挙等により、衰退し、最後は敗戦により、霧消したのは残念である。満鉄調査部・東亜経済調査局の成し遂げた成果は情報サービスの視点からは世界史的にも特筆されるべき成果であり、このような偉大な活動が同じ組織内で行われていたにもかかわらず、それを取り込めなかった日本の図書館界は、ここに大きな反省材料があることを銘記すべきであろう。後藤の大風呂敷は日本の図書館界には大きすぎたの図書館は本の集積拠点であり、世の人々は、その図書館の動きを主導する図書館の司書は、本の中身についてもよく知っている、と考えていると思われる。中身がわかっているということは本をよく読んでいるに違いないと思っているのであろう。事実、筆者の経験からいうと司書になりたいという学生の多くはその理由として「自分は本を読むのが好きだから」と理由を述べていた。また、筆者が大学教員になりたてのころ、当時東京大学総合図書館長を兼務しておられた教育学部の裏田武夫教授が、「館内を朝見回りして、また夕方に見回りをすると目録係の担当者の机には同じ本が置かれており、目録カードの記入も同じ個所で止まったままになっていることが多い。彼らは一日何をしているのだろうか?」と言っておられたこと思い出す。これはオリジナル・カタロギングでは、一日に何冊もの図書の目録作成はできないということを示している。その前提として司書は目録対象となった本の記述内容を適確に把握している必要があり、そのためにはその本を適切に読み込んでいる必要があることになる。しかし、そうなると日々新規に受け入れられる新刊書の山が目録担当者の手許に生じる。それを避けるためには目録担当者の数を増やすか、コピー・カタロギングへの移行を行うかであるが、館界ではご承知のようにコピー・カタロギングを導入して、この問題を解決している。では、オリジナル・カタロギングをせざるを得ない納本図書館である国立国会図書館の司書は目録対象の本を本当に読むのであろうか。  最近面白い本を読んだ。パリ第八大学のピエール・バイヤール教授の『読んでいない本について堂々と語る方法』と言う本である。この本の中でオーストリーの作家R.ムージルの『特性のない男』に描かれた司書が登場するが、この司書が図書館の蔵書について問われ、「どうして私が全部の本を知っているのか、知りたいとおっしゃるのですね。それは一冊も読まないからなのです。」と答える。要するに、司書の任務は蔵書を構成する本を読んで、その本の内容を正確に理解把握することよりも、蔵書という網羅性の中に個別の図書で著わされている知的情報を位置づけることにある、ということだとする。このためには、最高の司書は全知全能の神の如く、知の世界全体にわたりその隅々までの見晴らしを視野に入れて、目先にある本に示された知的成果をどこに位置付けるべきかを決定づけることが出来なければならない。そのためには「司書が本の内容にまで立ち入って読んではだめで、図書館利用者が追い求めるべき教養とは様々な書物の間の連絡や接続なのであって、個別の書物ではない。」のである。そこで、司書は書物に愛情があればあるほど、書物の中身に立ち入らずにその周縁に注意深く立ち止まると指摘している。重ねて言う。司書は本の中身を読むのではなく、その本の著者名、書名、目次、索引等には目を落とす。しかし、本文には落丁や乱丁を探す以外には目を遣らない。  筆者は昔からの鉄道ファンである。鉄道ファンには幾つかの趣味のタイプがあるが、代表的なものに、いわゆる「乗り鉄」と「読み鉄」がある。「読み鉄」とは鉄道関係の刊行物を読むことを趣味とするがその刊行物の一つに時刻表がある。一般人には鉄道は単なる乗り物で、移動の手段であり、それを趣味にすることすら、不思議に思われるだろうが、読み物、それも単なる数字の羅列された時刻表を読むことなど、およそ考えられないかも知れない。しかし『阿房列車』で有名な内田百閒先生は「乗り鉄」であった。往年の特急「つばめ」、「はと」を愛されたようで、氏の特急列車の展望車や食堂車に関する蘊蓄は読んで楽しいが、氏の郷里の岡山や、さらに遠く、博多や鹿児島に行く時に、どのようにどの列車に乗り継げば何時にどこにつくか、どちらの列車が便利か等は時刻表を読んでいなければわからない。時刻表は全国の鉄道の動きはもとより、全ての線区やそこで運行される全列車の関係、接続がすべて読み取れる。鉄道を移動の手段ととらえ、特定目的地に向かおうとする人には必要不可欠な情報を与えてくれる。  図書館の世界に話を戻せば、「読み鉄」が司書であり、「乗り鉄」が一般図書館利用者であろう。「読み鉄」が時刻表を見て、全国の鉄道の運行を瞬時に把握して、鉄道利用希望者に適確な案内ができるように、司書は本を読んでいなくとも、目録等のレファレンス・ツール(参考図書)を見て、必要な本の案内ができる。司書は本を読まなくとも、本に関わる他のものを読まなければならない。すなわち、二次資料、レファレンス・ツールであり、自館のシェルフ・リーディングである。  このような司書特有の読み方で、教養を高めるために図書館を利用しようとする利用者に最善のサービスを提供する。そのためには、まず、知識・思想の間の関係や見晴らしを展望したり、できるように環境を整えることが必要になる。教養の領域では、個々の思想の相互の関係が、個々の思想そのものよりもはるかに重要なのである。敢えて付言すれば、この「全体の見晴らし」は、分類表やシソーラス(件名標目表、統制語彙表)等の用意があることで得やすくなる。分類が単に書架上の配架位置決定機能ではなく、目録が単に書物の一覧表示機能から脱却して始めて見晴らしが展望できる位置に近づけることを司書は熟知しているとはずである。

高山正也 

(掲載日:2020年7月2日)

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