片言隻語

第26回 司書ではない図書館界の偉人(その2)後藤新平と満鉄調査部

 昭和20年以前の戦前期、日本の図書館界で一時代を画した人物に政界の大物でもあった後藤新平がいる。後藤新平(1857-1929)は医師・官僚・政治家として、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、東京市市長、拓殖大学学長等を歴任した。後藤は日露戦争時に満州軍総参謀長であり、台湾総督府民生長官として仕えた台湾総督であった児玉源太郎から満鉄初代総裁への就任を請われた時に、満鉄には充実した調査機能が必要で、そのためには巨大な「アルヒーフ」を創らねばならない、と言ったと伝えられる。「アルヒーフ」とは”archieves”、すなわち専門図書館のことである。この時後藤の頭には1902年の訪欧時に見学したパリのクレディ・リヨネー銀行調査部における経験が浮かんでいたはずである。後藤は言った。「(同銀行の調査部では)日本の公債のこと、経済のこと、興業上のことなど、何でも分かるようになっております。字引をひくようにして引出せば、日本のことがすぐに出てくるのであります」と。要するに索引システム、図書館流に言えば主題件名目録が完備していたのに感心したのである。
 後藤の満鉄経営の理念が、「文装的武備」であることはよく知られている。日露戦争直後の満鉄沿線の治安は未だ安定せず、満鉄は営業の安全を保障するため、その営業路線10キロメートルあたり、15人の兵力を配置・行使する「駐兵権」を与えられていた。しかし後藤は、台湾旧慣調査の経験から、武力による威圧よりも、住民の不安や不満を吸収した政策を展開し、沿線住民の協力の下に、その不満を解消することの有利性を知り、調査の実行とその結果の経営施策への反映を優先する経営方針を採用することとした。この経営方針を「文装的武備」と名付け、調査機能を重視したのである。後藤の「文装的武備」の理念は、満鉄の安全な経営だけにとどまらず、日本の植民地経営、さらには東アジアや、アジア全域のあり方の基本として考えられていたようである。この結果、後藤の構想は満鉄の調査部と表裏一体となる東亜経済調査局になって実現した。
 後藤は、この構想を実現するために、京都帝国大学の法科教授であった岡松参太郎をかなり強引に満鉄理事に引き入れた。併せて岡松にもクレディ・リヨネー銀行の調査体制の視察を勧めた。しかし岡松とて、調査業務の基盤をなす文書管理、図書館業務については素人であり、文書管理の実践指導は、当時ダンティッヒ高等工業学校教授で、海運会社での調査業務経験を有していた経済学者のチース(K. Thies)を東亜経済調査局の顧問として迎え、彼に委ねることとした。なお、チースは赴任途上でのクレディ・リヨネー銀行への視察を要請されており、それを手本に指導した。
 チースの後任はプロシャ内務省の参事官であったウィードフェルド(1911-13)、その次はマンハイム高商教授のベーレント(1913-16)と続いたが、彼らは東亜経済調査局の顧問として、調査業務を既存の文献情報に基づき、科学的に調査することを指導することが主眼であった。そこで、文書管理・図書館的な書誌的技術に関することは、助手に任されたが、助手として来日した人物にはヘルマン・バウムフェルト(オーストリア、1908)、グリューン・フェルト(ドイツ、1910-14)、ハック(ドイツ)等がおり、これらの助手たちが特に資料収集、新聞・雑誌等の記事の分類、整理等の方法を指導した。

 こうして1920年3月末までの図書購入数量は、外国図書1万1千点、法文図書6,684点、1937年当時には図書に雑誌・新聞記事の切り抜き帳を加え、約10数万冊と言われ、1945年の活動中止時点では約20万冊程度の蔵書規模になったと言われている。(原覚天.現代アジア成立史論. 勁草書房、1984、p.439.) この中には世界的なイスラム(回教)文献のコレクションとして知られたモーリツ文庫も含まれていた。モーリツ文庫とは、オランダの東洋学者であったベルンハルト・モーリツ(Bernhard Moritz,1859-1939) とガブリエル・セラン(Gabriel Serrand, 1864-1935)の所蔵したイスラム(回教)関係の稀覯書を、モーリツの死後、1939年にオランダのライデンにあるブリル書店がセランの蔵書を含め、回教文献コレクションとして売り出したものを、大川周明が東亜経済調査局の費用で購入し、モーリツ文庫と名付けた。買い入れ価格は15万円(当時)で、1940年までに東亜経済調査局に収められたとされるが、1945年に占領軍が東亜経済調査局の所蔵文献を接収した際、米国議会図書館・国防総省の図書館に保存されたと言われている。戦時没収本については、中国大陸での日本軍による没収図書類に関する日本での調査・研究もある。これらは日本への輸送途上、連合国軍の攻撃で海没したなどで失われた図書類を除けば、戦後返還されているが、満鉄系の蔵書類は満鉄が閉鎖機関になったことと、没収した占領軍が米国軍やソ連軍など複数ヵ国にわたったこと等も原因となったのであろうか、元の状態に回復させる努力は行われなかったようである。
 満鉄には、調査部系の図書館として、クレディ・リヨネ―銀行に範を取り、ドイツ人等に指導された図書館と、衛藤利夫(戦後再建された日本図書館協会初代理事長)等の日本人が働いた大連図書館を中心に約30館ほどと言われた社会教育系の公共図書館的な図書館が存在したが、この二つの系統の図書館間には相互の交流がほとんど無かったようである。調査部系の図書館は、東亜経済調査局と表裏一体をなした調査部の調査活動の基盤を支え、その調査結果は専門家に大いに評価された。占領軍として乗り込んできた米軍が、東亜経済調査局のコレクション没収に際して、最重要目標として持ち去ったのは、モーリツ文庫でも、欧州言語で書かれた専門書群でもなく、日本語で書かれていた未刊行原稿を含めての調査報告書であったとのエピソードも残っているほどである。一方の公共図書館的な分野においても、満鉄はそれなりの成果を残した。満鉄の関係者が戦後内地の図書館に職を得た事例も少なからずある。その代表例は、上述の衛藤利夫であり、大佐三四五もいる。大佐は、昭和初期に満鉄の社命で米国ミシガン大学のライブラリースクールに留学し、マスター学位を得たプロフェッショナル・ライブラリアンであった。戦後は内地での自治体の社会教育や、大学図書館でも大いに発言をしている。
 しかし、満鉄においては調査部系と総務部系の図書館の交流実績はほとんど見られず、後藤の意図は、調査部系の東亜経済調査局にしか生かされなかったし、その東亜経済調査局も戦時下の思想調査での部員の検挙等により、衰退し、最後は敗戦により、霧消したのは残念である。満鉄調査部・東亜経済調査局の成し遂げた成果は情報サービスの視点からは世界史的にも特筆されるべき成果であり、このような偉大な活動が同じ組織内で行われていたにもかかわらず、それを取り込めなかった日本の図書館界は、ここに大きな反省材料があることを銘記すべきであろう。後藤の大風呂敷は日本の図書館界には大きすぎたのかもしれない。

高山正也 

(掲載日:2020年3月31日)

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