片言隻語
第25回 司書ではない図書館界の偉人(その1)
世界大百科事典の「図書館」の項に、菅原道真の紅梅殿を取り上げ、日本の図書館の始まりに関する次のような記述がある。
「・・・聖徳太子の夢殿、大宝令の規定に見える中務(なかつかさ)省の図書(ずしよ)寮、東大寺など大寺に付設された経蔵、さらには吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)など知識人の私的な文庫も広義の図書館と考えることができるが、一般には石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が奈良の地において、私邸に阿閦(あしゆく)寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設け公開したものが日本における公開図書館の発祥とされる(8世紀後半、本コラム欄第21回も参照されたい)。また、菅原道真はその書斎文庫の紅梅殿(こうばいどの)を他人にも公開したといわれる。彼はまた《類聚(るいじゆう)国史》を撰しているが、これは、そのときまでに出た六国史それぞれの中から事項別に原文を抜粋し編集したもので、日本におけるカード(短札)方式による知識情報の処理の最初の例ともいえる。・・・」(世界大百科事典より)。
「天神様はカードを使って、勉強されたらしい!」というのが筆者の第一印象であった。1970年前後であったか、まだ筆者の若き日の頃、「京大式のカードによる学習法」なるカード利用の学習法が、いまだPCはおろか、ワープロも未普及の日本で流行ったことも、記憶によみがえった。
今の若い人にはキーワードを用いて、必要とする情報を求めることは常識化しているが、日本の図書館の伝統は、このように必要とされる知識や情報を、キーワードなどを用いて的確に検索するよりも、どちらかと言えば、原典を読み込み、知識の総量を増やして、知識・概念を聯合させて必要な知識を想起させ、表現する、すなわち熟読玩味を重視する読書を前提にとしたように思われる。これが「読書百遍意自ら通ず」という日本の学習における伝統を前提としたものではなかったか。道真公がカード方式による知識情報の処理を、京大式カードに約千年も先んじて実践して、行っていたとすれば、これは「さすが、天神様(菅原道真)!」である。
日本社会には、古今、道真公にも匹敵する知的な天才・逸材は輩出するが、カードを用いて、知的な作業に対応した人は道真公以後長くは出なかったように思われる。「読書百遍意自ら通ず」の記憶重視の学習では、件名目録や索引カード等を用いての特定主題や事項、情報の適合検索の必要性が明確にならない。これが背景になって、日本の図書館界では、著者名目録や書名目録が中心で、件名目録が重視されない目録上の特徴(弱点)が常識になった。
図書館の世界では、このカード方式を採用して、作業の効率化を推進した代表的な人物に、十進分類法の開発で名高いMelvil(Melvilleとも)Dewey(1851-1931)がいる。日本の図書館界でこのDewey に着目した一人が青年図書館員連盟を主導した間宮不二雄(1890-1970)であった。間宮は丸善での丁稚奉公を経て、米国のタイプライター工場で修行して後、米国各地を見学し、図書館の重要性と、そこに図書館用品を供給する企業、Library Bureau社を設立し、十進分類法を創案し、米国図書館協会の設立にも尽力したMelvil Deweyを知り、その考え方に着目したと思われる。帰国後、間宮は当時図書館活動が盛んであった大阪に、日本で最初の図書館専門商社である日本版Library Bureau社ともいえる合資会社間宮商店を開き、カード類をはじめ各種の図書館設備・備品を供給することで、日本の図書館振興に寄与・貢献した。それだけでなく、図書館員らによって1927年に結成された青年図書館員連盟にも、創設メンバーとして参加して、そこに集った司書達と共に目録や施設の改良などを企画したり、司書の養成や能力開発にも貢献した。
この青年図書館員連盟は、当時の図書館界の旧弊を打破し、最新の図書館知識や手法を日本に導入することで、日本の図書館の革新発展を目的とした。実質的に1945年以前における日本の図書館界の理論・知識面での指導・研究体制は、この青年図書館員連盟が牽引したといっても過言ではないほどである。しかし、1945年の大阪大空襲により、この間宮商店も、内外の主要図書館学文献を間宮が集め、総数2,000冊を超えたと言われる「間宮文庫」も灰燼に帰した。このため、間宮商店の経営活動がその基盤を失っただけでなく、戦争の激化とともに活動を既に休止していた青年図書館員連盟も、その活動は中断され、間宮は空襲被災後、北海道に疎開した。
戦後、間宮は当座、北海道に留まったが、1951年(昭和26年)に東京に戻り、株式会社ジャパン・ライブラリー・ビューローを設立して図書館用品商社を再開した。しかし、程なく経営の第一線を退き、図書館員養成所の講師などを務めた他、Japan Library School(慶應義塾大学文学部図書館学科)の開校直後には、Robert Gitlerにも面会し、助言を与えている。Gitlerも間宮の言葉をよく記憶していて、カード目録のビジネスについて語り合ったことに加え、間宮は児童や学校図書館に関心が強かったとしている。(Gitler, Robert. Robert Gitler and the Japan Library School. ed. by Michael Buckland. Scarecow Press, 1999, p.100.)戦後の間宮は、戦前の活発な日本の図書館界革新の動きに比して、比較的穏やかに、占領軍に後押しされた日本の図書館界の革新の動きを見守ったかに見える。1970年秋、叙勲の祝宴直後に急逝した。戦後、再興した間宮文庫の蔵書は、現在、富山県立図書館に寄贈され、収蔵されている。間宮は無位、無官であった。図書館の外に身を置いて、近代社会における図書館の重要性を信じ、図書館用品の供給を通じて日本の図書館の近代化を推進するとともに、その図書館で働く人のために図書館業務についての理論や知識を進化・発展させるべく青年図書館員連盟の事務局を引き受け、図書館界で活躍する若手(青年)の啓蒙・養成を図った。