片言隻語
第21回 芸亭(うんてい)はどこに?
日本で最古の図書館として広く知られているのは、石上宅嗣卿(729-781)住居の一部を用いてその豊富な蔵書を広く公開したと伝えられる「芸亭」である。宅嗣卿は奈良朝後期の左大臣、大納言にまで栄進した公家、文人である。物部一族に連なる石上宅嗣卿は名門の出身だけでなく、容姿に優れ、立ち居振る舞いに雅やかさがあり、賢明で悟りが早く、経書、歴史書を好み、幅広い書籍に通じていたとされる。文を創るに巧みであり、漢詩人であり、書にも優れて、「経国集」にも作品が収められている。仏道にも通じており、旧宅を阿閦寺として、その一隅(一部?)に書庫を設け、芸亭(うんてい)と名付け、主に外典を一般に公開したことで知られる。これをもってわが国最古の公開型の図書館とされているが、この芸亭の所在地は長く不明であった。所有者であり、主催者の宅嗣に因み、石上神宮の近傍の石上氏の所縁の地であろうと考えられていた。この石上氏所縁の地に1930(昭和5)年天理外国語学校(当時)図書館が造られることとなった。この図書館の新築開館にあたり、図書館前に石上宅嗣卿顕彰碑が建立され、今日に至る。碑文(石上朝臣宅嗣卿顕彰碑)は当時京都帝国大学図書館長であった新村出の撰になる。
しかし碑は天理大学構内で大事に保存されてきたとは言え、建立90年近くなり、拓本にでも取らない限り、碑文を読むのはかなり難しい。そこで以下にその全文をご参考までに掲げる。
爾来90年近い時の流れの中で、歴史の研究は進み、石上宅嗣の住居跡は今日では特定されている。それは残念ながら石上神宮から少し離れた奈良市内である。奈良市立一条高校(奈良市法華寺町1351)がそれで、同校では宅嗣卿住居跡に因んで、同校の武道館を改築するに際し、武道場の二階を学校図書館にして、その建物の名称を「芸亭文武館」としている。自らの住居や芸亭の後に学校が立ち、現代の若者が日夜勉学にいそしんでいる。これを知れば宅嗣卿は大いに満足し、喜ぶであろうか。
石上朝臣宅嗣卿顕彰碑
石上朝臣宅嗣卿が奈良朝の晩季宝亀年間に方り平城京の一隅に創立せし芸亭院は我国公開図書館の權輿とせらる
卿名族に出で父祖共に国史に顕はれ且文学の誉あり 卿儀容閑雅経史を尚び山水に親み詩歌を能し書道に達せり 和歌は万葉集に録せられ詩賦は経国集等に存す
又仏教を篤信し其旧宅を捨して阿閦寺を営み寺内特に外典の院を置き名けて芸亭と云へり 好学の徒は出入して自由に図書の閲覧を許され読書の傍兼ねて塵世を超越して修養の静境たらしむ恵澤を被むりて著はれし者に賀陽豊年等あり 惟ふに金澤氏の文庫設立を遡ること約五百年而も卿が徒に典籍を収蔵するに止めず弘く之を公衆に開放して利用を奨めたる一事は近代以前殆之を見る能はざる所に属し真に本邦上世文化史上の異彩と称すべく且東西図書館史上に特筆するに足れり
惜むらくは人去つて跡穢れ存立つ僅かに数十年に至らず平安朝初期以降其院廃すること既に久しく遺址の明に究め難きを憾めり 是に於てか芸亭を表彰せむと欲する者假に石上氏発祥の地を選びて碑を建て宅嗣卿敬仰の意を致さむとする 亦止むを得ざるに出づ按ずるに石上氏は神別物部姓の流を汲み饒速日尊の後裔宇麻志摩治命を祖とし古く石上神宮の西辺に住しき今其旧跡を察するに天理図書館新営の処を隔つること遠からざるに似たり
卿此土に起りて官は大納言兼式部卿に上り晩年桓武天皇東宮に在はしし頃其傅たり 位は正三位に進み天応元年六月薨ぜし時詔して正二位を贈られぬ 又即今茲昭和五年を去ること殆千百五十年前とす 蓋其生誕天平元年より算すれば本年は正二千二百年に当れり是を以て本県図書館の従事者愛護者等相共に首唱し広く之を遠近各地図書館員並に日本図書館協会に計り協心戮力芸亭記念の業を予に嘱せり 予詞章に嫻はずと雖卿を欽慕すること甚深し乃通俗の一文を草して普及に便にす
皇紀二千五百九十年八月
京都帝国大学図書館長 文学博士 新村出 撰文
寧楽 史邑 辻本勝己 書