片言隻語

第18回 令和の図書館はどうなるのか(2)

 平成は昭和後半の高度経済成長の終焉と共に始まったと言える。昭和時代の日本ではpublic libraryを、専門家と自称する者でも「公立図書館」と誤訳して平然としているほどに、自治体の直営に全面的に依存した図書館運営が大多数を占めていた。これが平成に代わるころから、自治体の中にも徐々にコスト意識、合理的な経営意識が芽生え、変化の必要性が意識され始め、平成期に入ると、新設や、施設の更新に際して、まとまった地方財政負担を避けるべく、PFI(Private Finance Initiative)が検討され始めた。それがやがて、事業の運営にも民間の力を応用すべく、業務の外部委託から、指定管理者制度へと発展した。この様な図書館を巡る変化や発展は、残念なことに図書館内部から提唱されたものではなく、図書館の外部、すなわち行政の側からの問題提起であった。図書館内部の図書館運営に関わる考え方は、昭和の時代の「中小レポート」や、「みんなの図書館」の域に留まっている。都道府県立図書館は第二線図書館で、地域住民としての利用者に直接的に図書館サービスの実施で接する第一線図書館と呼ばれる市町村図書館の補完役に止まり、都道府県庁所在都市において、都道府県図書館と市町村図書館が隣接して並立するケースも少なくない。このようになっても、相互の機能分担があるので、その並立が当然の姿と見られていた。図書館の施設・建築物に関しても、蔵書の充実に応じて施設の規模拡大の傾向にはあったが、図書館数の拡大こそが目的化され、図書館の最適規模やコストはおろか、他の社会教育施設と複合施設化することへの感覚は殆んど無く、専ら、図書館単独館にこだわり、図書館の内部だけが関心対象となっていた。
 この段階で主たる図書館サービスは貸出サービスとされ、その貸出サービスのためのレファレンス・サービスが補助的に位置づけられていた。日本の公共図書館がその経営基盤を公的な財源に依存しているなら、また、情報表現がデジタル化、映像、音響、マルチ・メディアへと多様化し、利用目的も、教養娯楽や学習・教育からビジネス、法律、歴史、医療、介護、育児等と多様化するなか、一般的に都道府県立図書館の方が、市町村図書館よりもより充実した経営基盤を持ち、より充実し、多様な蔵書を保有できる。更に、日本全体が少子高齢化、経済の成熟化、安定化に伴い、地方財政の緊縮化、二重行政の排除などの既存の体制に潜む無駄の排除に向かう中での見直しが進むと、行政サイドでは都道府県立と市町村立図書館の一本化、さらには図書館、公文書館、公民館、博物館、美術館等の類縁施設の施設的、組織的な統廃合が、法令改正をも含め急速に進展する事は自然であり、その事を図書館界は覚悟しなければならない。
 日本の図書館界、特に公共図書館の世界は今、混迷の中にある。ここから抜け出し、令和の時代のあるべき公共図書館像を描くには逸早く、昭和の時代に形作られた日本の公共図書館像を見直し、修正する必要がある。昭和の公共図書館像とは公設の施設で、公立の、公務員による図書館であり、全てが自治体に依存した図書館である。要するに公共図書館経営は、換言すれば公共図書館運営の財源は公的な自治体財源に依拠し、図書館の経営は自治体職員である地方公務員が担い、自治体財産である公的な施設を用いて図書館を経営すると言う考えが日本社会には広がっていた。これが公共図書館の本来の姿であるのかを再考すべきではないか。

 世界の公共図書館のモデルとなり、その頂点に君臨してきたのがニューヨーク公共図書館(NYPL)である。NYPLは決してニューヨーク市の丸抱えの図書館ではない。設置主体は民間の非営利組織で、米国では公立ではなく私立図書館と見なされている。公共とは“Public”の意であり、全ての人に開かれている事を意味し、その機能は日本の研究図書館、専門図書館の機能である調査・研究の場である事を含んでいる。これが可能になるのは図書館が充実した規模と室の蔵書を持ち、その優れた蔵書の活用を指導・助言できる優れたプロフェッショナル・ライブラリアンがいて、この図書館で学ぶことで、革新的な技術やそれに裏付けられた高度な工業機器が生まれたり、世界的な企業が生まれたりするからである。その背景にはNYPLとその利用者はあくまでもニューヨークと言う地域コミュニティーへの愛着心と共に、そのコミュニティーの構成員としての自覚や貢献への意欲があり、NYPLはその利用者に奉仕・貢献することに全力を傾けるとともに、利用者も、その個人の置かれた環境の差異を克服して自らの能力の発揮にNYPLを存分に活用する。そして、コミュニティーの構成員としての務めであり、義務として、自らの能力の成果から応分の貢献をNYPLに還元する。これこそが公共図書館のあるべき姿であろう。そこには、図書館の設置や維持・管理はもちろん、その充実も公的な財源に依存し、図書館の利用の権利は主張するが、それによって得られた恩恵に対する感謝の表明も、行使した権利に見合う義務の遂行も無視している日本の公共図書館の利用者の身勝手さはない。公共図書館の充実は国の図書館政策や、自治体首長の地域文化への理解度よりも、その図書館の利用者たちが如何に自分たちの図書館としてその図書館を充実させてゆきたいかと考える意識に依存する。司書はそのように利用者の意識を仕向ける先導役にならなければならない。そうであれば、公共図書館が無料貸本屋に堕したり、図書館の財政が自治体財政の逼迫により行き詰まる以前に、利用者によるファンディングが可能になるはずである。この様な公共図書館の実例が、NYPLなのである。しかしこのようなNYPLも一朝一夕にできた図書館ではない。
 図書館中毒とまで言われる図書館愛好癖のある米国社会にあって、世界経済の中心地となったニューヨーク市と言う経済拠点という地の利の下に1911年に現在の本館が開館以来一世紀以上の時間と日々の充実した図書館活動の積み重ねの上に現在がある。そのNYPLは現在、四つの中央図書館に加え、90館近い地域分館から構成されている。
 その参考となる映画が、フレデリック・ワイズマン監督によって創られた。作品は「ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス」である。2019(令和元)年5月半ばから全国で順次ロードショー公開されている。機会があればご鑑賞のうえ、令和の時代にふさわしい新公共図書館像形成の参考としていただきたい。

高山正也 

(掲載日:2019年6月25日)

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