片言隻語

第16回 令和の時代を迎えるに際して

 現代社会における図書館の価値やその重要性は確実に高まりつつある。ただ、その具体的な認識が、人や職業により、また国や所属する文化圏により、かなり差のあることもまた事実であろう。かつて昭和から平成に移る頃、具体的には20世紀の末には、来るべき21世紀は知識集約社会であると言われた。この知識集約社会における具体的な技術革新とはデジタル化であり、AI化であったが、当時は多くの人が、それはSFの世界と思って聞いていたかの感がある。これが一般庶民にまで実感を持って受け入れられ始めるのが、今新たに始まった令和の時代であろう。平成の時代には、SFの世界や先行する一部の社会での話であり、守旧派には、まだその影響の及ばない社会に生きることも可能である、との思いが残存していたとも言える。しかし、令和の時代を迎えると、もはやそのような悠長なことは言っていられない。待ったなしでデジタル化に直面する。日本は例外であるとか、デジタル化に対応できない少数者の切捨ては人権の無視であるとかの言い訳は通用しなくなる。
 そこでわれら図書館の世界であるが、図書館、特に公共図書館の世界でのデジタル化対応はどうであろうか。デジタル化時代の図書館、令和の時代の図書館、とはいかなる図書館であるのか。この話題は、図書館界では時事的なテーマとして、令和への元号切り替えの時期に盛り上がっていると考えられる。しかし、その議論においては、技術的な可能性と、こうなればよいという理想や夢物語とが混在していないだろうか。
 我々図書館に携わっている者は、メディア上で与えられたテーマについて、単に一般受けの良いことを無責任に発言し、その発言内容には一切の責任を負わない評論家、有識者であってはならない。
 図書館が知識集約社会において重要性を増す、と本文の冒頭で述べたのは、知識集約社会という語が示すように、これからの価値ある“知”とは、単なる表面的な思い付きや発想のひらめきだけに依存する知識ではなく、過去から累積的に積み上げられてきた多くの知識を集約した結果得られる人類・民族の知的文化、それらをベースにした知的・学術的な精華が問われる時代だということである。いかに高度で先進的なAIシステムが導入されても、あるいはデジタル・ライブラリーのシステムが完成されて、遠隔利用や即時検索のサービスが可能となっても、そこに集積されている高度な知的な文化的遺産や蓄積の裏付けがなければ、その精華の品質は保証しえない。
 だが、日本の、特に公共図書館の世界を概観するに、多くの図書館は本当に知的集約化の時代に、その存在価値を主張できる図書館たりうるであろうか。そう言われても、図書館を取り巻く環境が、日本ではデジタル化を進められる状況になっていないとの反論が寄せられよう。出版界も行政の世界も図書館の利用者も、公共図書館とは無料貸本屋であればよい、との意識から一歩も前進していないのだと言う。しかし、そうであればこそ図書館の世界は、出版界に、行政の世界に、そして何より図書館の利用者に働きかけ、啓発し、教育して、ますます情報密度が高まるこれからのグローバル社会でリーダー・シップを取れる日本国民を養成する図書館活動を展開しなければならないのではなかろうか。令和の時代の劈頭に際し、諸賢に是非、ご一考をお願いしたい。

高山正也 

(掲載日:2019年5月7日)

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