片言隻語
第15回 図書館は文学の丘によく似合う
建造物としての図書館には有名な建築物も多く、世界の都市の観光ガイドに紹介される図書館も多い。例えばワシントンDCの米国議会図書館、ニューヨークのニューヨーク市立図書館、ロンドンの英国図書館、パリのフランス新国立図書館などがあるが、どれもその都市の代表的な象徴的建造物として第一順位にはなっていない。何故なのか。図書館は、人類の知的文化の集積拠点であれば、現代社会の知的文化拠点とも言うべき大学では図書館はその象徴的建造物として知られているであろうか。確かにハーバード大学のワイドナー(Widener)図書館、オックスフォード大学のボードリアン(Bodleian)図書館等はしばしば大学の象徴として扱われるものの、日本の有名大学としての東京大学は安田講堂が、早稲田大学も大隈講堂がその象徴であり、図書館ではない。そのような中で慶應義塾大学は図書館が大学の象徴となっている数少ない例かもしれない。
周知のように慶應義塾は1858年に江戸、築地鉄砲洲の中津藩邸の長屋の小部屋での福澤塾の開設に始まり、芝の新銭座を経て1871(明治4)年に三田の現在同大学の三田キャンパスの地に移ったが、当然当初は図書館などの施設はなかった。1912(明治45)年に開学50年記念図書館として赤煉瓦の旧図書館がキャンパス内に創られ、これが当時の高層建築が無い周辺地域からはよく目立った事もあり、その後、1958年に開学100周年記念の郵政省発行記念切手にも描かれたりして、慶應義塾のシンボルとなった。
慶應義塾は日本の図書館の発展に要所要所で関わってきた。先ず、塾祖福澤はその著作「西洋事情」で、「西洋の都府に文庫あり、『ビブリオテーキ』という」として、日本で最初に西洋の近代図書館制度を紹介したとされている。ここでは同時に、「納本制度」についても紹介されているが、これは福澤が著作権思想の日本への紹介と確立に貢献した事とも絡むであろう。この慶應義塾の旧図書館は関東大震災には耐えたが、1945(昭和20)年5月の空襲で、キャンパスも図書館も被災したが外壁は焼け残った。三田以外のキャンパスの戦災被害も大きく、日本全国の大学中最大の戦災被害大学と言われているが、戦後の復興に際し、多くの戦災を受けた大学が教室や、事務・研究室棟等からの復旧を計ったのに対し、慶應義塾はまず図書館の復旧から始めたと伝えられる。こうして復興した旧図書館は今や重要文化財に指定され今日に至るが、一昨年(2017年)来、耐震補強工事が行われており、2019年の夏前の完工を目指している。
この大学に、1951(昭和26)年に日本で最初の大学レベルで図書館学の研究・教育を行う図書館学科(Japan Library School)が占領軍の肝煎りで開設された。慶應義塾に図書館学科が開設された理由として、どの大学にこの図書館学科を開設するかの決定権を与えられた初代の学科主任のギトラー(Robert Gitler)教授が『福翁自伝』を読み、深く福澤思想に傾倒したからと伝えられる。この結果、慶應義塾の図書館は日本で最初の本格的なレファレンス・サービスの実施館ともなった。しかし、このレファレンス・サービスについても、この旧図書館の新築・開館する3年前の1909(明治42)年に慶應義塾に招かれて、立法調査として、今日で言う図書館のレファレンス・サービスの重要性を紹介した米国の大学図書館長がいた。その名をチャールズ・マッカシー(Charles McCarthy)という。米国ウィスコンシン大学教授兼図書館長であった彼の提唱した「立法調査」は米国議会図書館に採用されて、それが戦後日本の国立国会図書館にも導入され、同館の「調査及び、立法考査局」となったことも知る人ぞ知る事実である。
来日時にC. McCarthy教授は福澤諭吉が明治7年に始めたと言われる三田演説会の465回目のスピーカーに指名され、通常三田演説会の会場に使われる三田の演説館では聴講希望者が収容しきれないと予測されたため、大学の32番講堂に場所を移して演説会は挙行された。講演は「米国の立法に就いて」というテーマの下、概略以下の内容の講演であった。
社会や経済はその進歩につれて複雑化し、それに応じて司法も複雑化する結果、新規立法にあたっては既存の法令や判例との整合性を取るために立法調査が必要になる。社会や経済の進歩に応じた司法の複雑煩雑化の状況下で、憲法や諸判例に反しない法律を制定することは困難になっている。これを解決するためには二つの方法がある。一つは行政指導者(米国の大統領のような)の卓越した指導力・能力に期待するか、行政、立法部門に専門家により構成される調査局のような組織を作る必要がある。米国では後者の調査局を設けて対応する方式を採用し、各州のみならず、連邦議会図書館にも立法調査局が置かれている。
この米国連邦議会図書館の立法調査組織が日本の国立国会図書館の調査及び立法考査局のモデルとなったことは言うまでもない。
この慶應義塾の旧図書館のすぐ脇には、日本の高度経済成長期の1970年代に、年を追うように三基の文学碑が建てられた。三田文学にゆかりの文人たち、吉野秀雄の歌碑、久保田万太郎の句碑、佐藤春夫の詩碑である。それぞれの碑面には次の作品が刻まれている。
「図書館の前に沈丁花咲くころは恋も試験も苦しかりにき」(吉野秀雄)
「しぐるるや大講堂の赤れんが」(久保田万太郎)
「さまよい来れば 秋草の ひとつ残りて 咲きにけり
「おもかげ見えて なつかしく 手折ればくるし 花散りぬ」(佐藤春夫)
慶應義塾の関係者はキャンパスのある海抜わずか数メートルの高台を「三田の山」と呼ぶ。それに倣ってか、この三基の文学碑のある場所を「文学の丘」と呼ぶ人もいる。折々、愛好者が碑を眺めにキャンパスを訪れて来られる。文学碑は大学のキャンパスに、図書館に馴染んでいる。文学の丘に図書館はよく似合う。