片言隻語
第12回 米国の司書の処遇の決まり方(2)
司書の処遇の向上、待遇改善のためには経済の高度成長期に戻って、公立の図書館の業務を直営化し、公務員司書に戻すべきとの意見もあるが、そのような歴史の歯車を逆転させるような事は出来ないし、仮にそうすれば図書館業務やサービスの水準は公的機関の人事管理の慣行から、坂を転げ落ちるようにたちまちに悪化・劣化することは火を見るより明らかである。高額なコストをかけて、低劣な図書館サービスを提供されては納税者はたまったものではない。実際、司書・図書館職員の処遇・待遇を憂慮する声は、自治体側よりも指定管理者としての応札企業側に多いようである。行政にとって、図書館はその状況の改善に細心の注意を振り向けなければならないほどの課題ではない。一方、指定管理者制度に応じている企業にとっては、このような価格競争の行き着く先は公立の図書館と言う市場の毀損にしかならず、市場の毀損・消滅は企業経営の永続性の観点からも即刻に有効な手を打たねばならない。このため、事業の永続性の概念に乏しく、図書館という社会教育制度が崩壊しても自身の雇用が保障されるならば、問題はないと考える公務員としての図書館関係者とは異なり、既に自らの企業内に於いて司書として派遣される職員の処遇の改善を具体的に指示し、その前提として自治体側の担当公務員の図書館についての考え方改革までをも手をつけ始めた指定管理者の経営責任者もあるほどである。
現状では図書館のイメージは、きつい、汚い(汚れやすい)、厳しい、と言う3Kに近いイメージを持たれる職場になりつつある。もしくはそうなってから相応の時間がたっている。この状況を打破するには、一部の評論家的識者や図書館関係者の言うような公務員司書に戻すと言う空論ではなく、指定管理者が価格競争で受注に勝ち抜くのではない、司書の能力に裏打ちされた図書館サービスの質やレベルで勝負できる、入札競争に変換しなければ、日本の公共図書館に明るい未来はない。即ち、高度知的専門職能人である司書によってのみ実現できる図書館サービスを提供する図書館になる必要がある。
そうであれば、司書の職業能力がどの図書館でも殆んど変わらないというような金太郎飴型の図書館ではなく、利用者の図書館サービスへの多様な要求を前提にした図書館活動が求められるはずである。これは地域毎に異なる利用者層、すなわち職業、年齢、所得、学歴、家族構成等が異なり、それに応じて、図書館への期待も異なる地域特性に合った図書館サービスの提供が求められる。ベストセラー本の無料貸出や一部の利用者からのリクエスト対応に奔走し、貸出冊数や来館者数という単純指標だけで図書館が評価される時代ではない。蔵書の貸出に熱中するのは「中小レポート」以来の日本図書館界の悪しき伝統であるとも言える。図書館こそが地域の歴史・文化の象徴であるからのだから、金太郎飴型の図書館を設置し運営して、そこに少なからざる公費の支出をすることは地方財政の無駄と言っても過言ではない。地域社会の独自性を持った個性豊かな、近隣の自治体とは異なる図書館になってこそ、21世紀の日本の図書館であり、そこには21世紀に輝く生き生きとした地域社会があると言える。
図書館は「明るく、楽しく、美しい」職場であるべきだ。最近、ようやくにして、図書館のブランディングに関心が集まり始めた。服装も前かけ(エプロン)からユニホームへと、さらにはヘアスタイルやメイクへと、関心のもたれ方も多様化し始めた。(例えば、広瀬容子著『ライブラリアンのためのスタイリング超入門』樹村房,2018.などを参照されたい)図書館に対して世間一般の人が持つイメージはどうであろうか。そのイメージが関係者にとって、あまり好ましいものでないのなら、それを如何に、どのように変えるのか。または変えられるのか。これを図書館に関わる人たちは考えなければならない。
20世紀の図書館人は真面目であった。あまりに真面目であり過ぎたのかもしれない。それ故、図書館人はその能力が大事であり、人を引き付ける魅力はその次であった。能力が大事なことは言うまでもないが、図書館人の仕事はその能力に加えて、図書館の利用者に喜ばれることであり、図書館人にとって楽しい仕事であるかどうかも問題とされるべきである。図書館では司書が最も偉く、利用者は司書の言う通りに行動すべきであり、司書が楽しく働ければよいと言うつもりはない。また、司書は決して利用者の奴隷ではないし、公僕でもない。図書館と言う知的ワンダーランドで、知的興奮に胸躍らせる来館者にとっての魅力的な案内人であり、知的に楽しい仕掛けの工夫人でもあり、未来へ向けての文化の創造者でもあってほしい。図書館はそのような人が夢を持って集まり、夢を持って、創造的に働けるイメージを是非にも創り上げてもらいたい。